福島第一原発から20km圏内に位置し、人の出入りが制限されてきた南相馬市小高区。2012年4月には、それまでの警戒区域から避難指示解除準備区域へと再編され、日中は人が出入りすることができるようになりましたが、震災から3年半たった今も、盆暮れなどの特別に認められた期間を除いて、宿泊はできません。家は無傷であるのに、住めないという現実。津波の被害に、放射能汚染が加わったことが、小高区の復興を難しくしています。

 南相馬市長は、震災から5年後の2016年4月を帰還時期の目安とすることを宣言しましたが、本当にその時期までに住めるようになるのか、住めるようになったとして、一体、どれだけの人が戻ってくるのかはわかりません。住めるようになったとしても、商店や病院などが戻ってこなければ、とても住める場所にはなりません。既に新しい土地での再出発を決めた人もいますが、戻るべきか否かを決めきれず、これからどうなるのだろうと不安を抱えたまま仮設住宅等での避難生活を余儀なくされている方も多くいらっしゃいます。


写真:JR小高駅。自転車置き場には、「あの日」のままの状態で自転車が置かれている。

 2013年4 月、小高区の主婦三人が、小高区内にNPO法人浮船の里を設立します。翌5月には、小高区内で「あすなろ交流広場」の運営を開始し、活動を本格させました。
 それから一年半が経ちました。浮船の里の久米静香理事長にこれまでの歩みを振り返ってもらいつつ、浮船のこれからについて語ってもらいます。

(聞き手・井上岳一/(株)日本総合研究所 創発戦略センター)

#1 浮船の里の原点

−− そもそもNPO法人「浮船の里」はどういう思いで立ち上げたんですか?
久米: 来る人が話せる場所をつくりたいと思ったんです。
−− 何故、「話せる場所」だったのでしょう。
久米: 案内して欲しいという声にこたえて、さまざまな人を小高に案内していたんです。そこで泣きながら話をするのを聞いてもらえる。そうやって繰り返し話をして、聞いてもらっているうちに、気持ちの整理がついて、落ち着いていったんです。精神的なリハビリだったんですよね。聞いてもらって初めて整理できた。だから、今度は、私が色んな人の話を聞いてあげたいと思って。きっと私と同じ人がいっぱいいるはずだって。それが原点です。
−− NPOにしようと思ったのは?
久米: それは相馬で出会った支援団体の方に薦められたからです。戻るつもりだったらNPOつくっておくといいよ、色んな人が応援してくれるよ、って言われて。それまではNPOの「エ」の字も知らなかった。私は、ただ帰って、子ども達が戻ってくるまで草むしりでもして、綺麗にしていようと思っていただけだったのに(笑)。
−− NPOにして良かったことは?
久米: 色んな人に知り合えたってこと。やっぱりNPOということでHPも作ったし。ただここに久米静香がいるというだけじゃ、来てくれない。NPO法人っていう名前があるから、「なんで小高にNPO法人なんてあるんだ?」とか「どうして立ち上げたんだ?」とかと興味をもってくれて、いろんな人が訪ねてくれたのは確かだと思う。
−− 相馬では何をしていたんですか?
久米: 避難生活でどうしようもなく悶々と過ごしていた時、水を配っている支援団体があることを知って、もらいに行ったんですね。そうしたらボランティアの人も少なかったので、「私でよかったら手伝いますけど」と言ったら、「お願いします」って言われて。手伝ってみたら、一日があっという間に過ぎたんです。もう何も考えない。放射能のことも、家に帰れないことも考えない。ただただ人が来るのに物資を配っているという単純な状態であっという間に時間が過ぎることが、凄く私には良かったんです。心を病まないで済む。だから、それから、時間の許す限り、毎日通ったんです。朝起きて、午前中は物資を配って、午後は孫の世話。一日が短くて、凄く有意義に過ぎていった。それまでは歩かないから膝に水が溜まって、痛くて歩けなかったんだけど、ボランティア始めたら動かざるを得ないから、肉体的なリハビリにもなった。
−− それがいつくらいのことですか?
久米: 避難先を福島から相馬に変えてからのことだから、2011年の10月頃だったと思う。それからはひたすらその支援団体でボランティアです。
−− 浮船の里を立ち上げる2013年4月までそういう感じですか?
久米: その前に、「小高キッズサポート」という活動を立ち上げていました。これは、借り上げ住宅に避難している小高の子ども達に、支援団体の持っている物資を配ったり、放射能汚染の心配のない野菜を販売したりというものでした。仮設の子ども達には物資が手厚く届いているけれど、借り上げの子ども達には、一切、そういうものがなかったんです。その時に、やはり借り上げに住んでいる自分の孫達のためにと言って、手伝ってくれたのが、後に浮船の里の理事となる小林ちい子さんと渡辺静子さん。渡辺さんの旦那さんが荷物を運んでくれるというので、彼の名前で立ち上げて、私が事務局をしていました。

写真:「浮船の里」創立メンバー。左から小林理事、久米理事長、渡辺理事。
−− 孫のために、というのが最初なんですね。
久米: そうです。そんなことしているうち、その支援団体の方に、「久米さん、これからどうするの?」って聞かれて、「小高に戻りたい。戻って人を待ちたい」と話したら、「NPOをつくろう」と言われたんです。私は「必要ない」って言ったんです。でも、「NPOにしておけば、きっといろんな人が助けてくれる」よって言うから。考えてみれば、当時、小高にNPOはなかったんですよね。浮船が、小高で初めてのNPOだったんです。
 それで小林さんと渡辺さんに話して、NPOが何なのかよくわかりもしないまま、三人で立ち上げたんです。設立の手続きなんかは全部その支援団体がやってくれました。でなければ、NPOなんて立ち上げられなかった。立ち上げた当時の事業内容は、キッズサポートの延長の野菜の販売と私が個人的にやっていたツアーガイド、それにコミュニティの再生というか、人が会って、話をする場づくりでした。
 でも、相変わらず水曜日と土曜日は相馬でボランティアしていて、ツアーガイドは個人的にはしていたけれど、それ以外の活動は特にしていない状態でしたよね。
−− 我々日本総研は、その支援団体を通じて、久米さんと知り会ったのですが、浮船の里が立ち上がる前でしたよね。浮船の里のことは、色々聞いていて、5月には小高住民のためのコミュニティスペース「あすなろ交流広場」も立ち上がるということだったので、「我々が聞き役を務めるから、月に一回、住民同士が話し合う場をつくりませんか」と提案させて頂いた。それが「芋こじ会」の始まりでした。芋こじは、始めてみてどうでした?
久米: うれしかったですよね。色々な人が色々な話をしてくれて。話を聞いているだけでも、「あ、みんなこういうこと思っているんだ」って知れて。あの頃は皆、放射能とゴミとガレキの話と、行政や東電の批判、そういうことしかなかったんだけど、それでも、私はそういうことに疎かったから、「そうなんだ、そうなんだ」と聞いてばかりいましたよね。
−− とにかく、話を聞こうというのが我々のスタンスでした。もっと復興に向けた計画づくりとか、そういうアウトプットを見据えた話し合いをすべきじゃないかという意見もあったのですが、とにかく小高の人達が抱えている状況を聞けば聞くほど、その問題の大きさを前にして、なす術もなくて、とにかくまずは聞くしかないと思っていました。そもそも、ヨソ者である我々のことはどう見ていたんですか?
久米: よくわからない人達でしたよね(笑)。日本総研なんて言われても、田舎の人間だからよくわからないし。ファシリテータなんて言葉も初めてだったし。でも、岳さんは会社の人として来ていなかった。私達の目線で話を聞いてくれた。普通にお酒を飲むおじさんだったし(笑)。だからすんなり入ってこれて、皆が受け入れられたんじゃないかと思う。北川さんとか菅野さんの優しさとか、そういうのも嬉しかったですよね。

写真:芋こじ会の風景
−− ヨソ者が来て、話を聞くことに対してはどう思っていたのでしょう?
久米: 私はツアーガイドを通じて、よその人に話を聞いてもらって、よその人とつき合ってきたから、よその人が入ってくることに違和感はなかった。むしろ、よその人にこそ、話を聞いて欲しかった。
 でも、月に一回来てもらって、皆で集まって、話をして、何かを作って食べるということが目的になったし、楽しみになりましたよね。理事会では、いつも次は何をつくろうかって話をしていました。
−− 2回目の芋こじから、話を聞いた後、ご飯を作って、食べることにしたんですよね。一回目終わった後に、来月はご飯をつくって皆で食べませんかって提案をして。最初は焼き肉でしたが、皆さん、とても喜んでいましたね。
久米: それまではそういう楽しみがなかったんですよね。震災後、皆、小高で初めてご飯を食べたんです。

写真:芋こじ会の後の食事の風景
−− 芋こじでは全然話をしない人が、ご飯をつくっている時、本当に楽しそうにしているのを見て、これはいいなぁ、是非、続けよう、と思いました。
久米: 彼女達もきっと寂しかったんですよね。月に一回集まって、皆で食事をつくるのが、楽しみになっていたんじゃないでしょうか。

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