#2 お蚕様プロジェクトと織姫プロジェクト

−− 月一回の芋こじを続けていくうちに、「このままじゃあだめだ」という話が出てきたんでしたね。
久米: 今でも覚えています。4回目の芋こじの最後。そのときに「このままじゃだめだ。何かしなきゃ」という話になったんですよね。
−− それまでの4ヶ月、ずっと愚痴を聞き続けてきた末に、ようやく前向きな言葉がでてきて、「やっと出てきた!」と思いました。そこで、すぐに「じゃあ、何をしましょうか」とこちらからも畳み掛けて。
久米: その時は、草むしりでもしようかなんて話しか出なくて。次の5回目の時ですよね。絹織物をやったらどうかという話から、どうせならお蚕様を飼うところからやってみようじゃないかって話になって。
−− 蚕の話は、本当に盛り上がりましたね。永木さんなんかも話に乗ってきて、皆が、てんでに蚕の話を始めた。ご飯の時間になっても、皆、蚕の話が終わらなくて。それまでの芋こじ会にはない、異様な盛り上がりでした。これは凄いぞと思いました。「お蚕様ってこんなに人をひきつけるんだ」と。
久米: その時、それまで一言も喋らなかった愛子ちゃん(永木さん妻)が初めて口を開いて、「私、織物したい!」って言ったんです。愛子ちゃんが初めて前に出た。それがとても印象的で。いつも後ろにいた愛子ちゃんが「織物したい」と言ったんだから、応援してあげたい、愛子ちゃんのためにもやる!って心に決めましたよね。
−− そこで、成功のイメージを掴むために、お爺ちゃんとお婆ちゃんばかりが葉っぱを売るビジネスで成功している徳島県の上勝町を見に行きませんか、って提案したら、皆、乗ってきてくれて。それですぐに段取りして、10月の初めには、皆で上勝に行ったんでしたね。上勝ではどんなことを感じましたか?
久米: お年寄りが葉っぱを売ってお金を稼いで元気になっているというのは確かに凄いことなのだけど、やっぱり人が元気でいるためには、つながりが大事なんだなと思いましたよね。80歳を過ぎたお婆ちゃんが凄く元気だったけれど、彼女は、外から来る若い人達といっぱいつながりができているから元気なんですよね。それに上勝は、(株)いろどりの横石社長始め、外から来た人達が支えている。上勝に惹かれて、若い人達が移住してきて、それがまた人々に元気を与えている。だから、お年寄りが頑張っていることで有名になったわけだし、一緒に行ったメンバーも、80歳過ぎたお婆ちゃんがギラギラしていることに感心していたわけだけど、私は、どちらかと言えば、若い人達とのつながりをなくしたらダメなんだなあということのほうを強く感じた。そういう旅でしたね。
−− 僕は上勝に行って、月数万円でもいいから、住みながら稼げるということが大事なんだ、それが住み続けるための支えになるんだということを痛感したのですが、確かに、稼いでいてもつながりを実感できなければ、幸せになれないですよね。上勝についてもう一つ印象的だったのは、上勝に入った時、久米さんが、「うわぁ、こんな山奥に人が住んでいるんだ。大変。小高はここに比べたらずっと恵まれている」と言っていたことでした。
久米: 自分が普通だと思っていたことが、いかに恵まれたことだったのかということを、上勝を見て知りましたよね。小高は恵まれた土地なんだと強く思ったし、上勝を見て、小高に住むことの怖さがなくなったということはあると思います。

写真:上勝町の風景。小高がいかに恵まれた土地かを知った。
−− 上勝から帰ってきてから、養蚕と絹織物の検討が本格的に始まりました。後にOdaka Worker’s Baseを立ち上げる和田智行さんが、本格的に浮船の里に関わるようになってくれたのも、この頃からでした。
久米: 養蚕は、「お蚕様プロジェクト」といつからか言うようになって。子どもの頃飼ったことあるとか、嫁の実家でやっていたとか、皆、それなりに接点はあるのだけれど、誰も詳しいことはわからない。詳しい人はいないかとか、道具を持っている人はいないかとか、そういうところから手探りで始めました。お蚕様は暖かくなってからじゃないと飼えないから、冬の間は、一つ一つ調べながら準備をしていった感じです。
 絹織物も誰もやったことがなかったから、シルクの産地である川俣町の織物教室に通って、織り方を習うところから始めました。自分達を織姫に見立てて、絹織物のほうは「織姫プロジェクト」と名付けて(笑)。
 和田さんは、確か、二回目の芋こじからの参加だったと思うけれど、ご実家が小高で機織工場を経営していたこともあって、お蚕様と織物のプロジェクトやるためには、彼に関わってもらわなければできないから、お願いしたんですよね。
−− 和田さんは、最初は、「そんなの絶対無理」って言ってたんですよね(笑)。それが、だんだんと本気で関わってくれるようになって。和田さんが色々と調整してくれて、織物も習い始めるわけですが、織物は、実際にやってみてどうでした?
久米: 最初は5人で習いに行ったんですけど、私が一番不器用だったんです。自分には機織りは向いていると思えなかった。半ば理事長としての義務で行っていたんです(笑)。ランチョンマットやテーブルセンターなどを織ったのですが、それもあまり自分には響かなかった。でも、ストールを織った時は、凄く楽しかったんですよね。愛子ちゃんと二人で織りに行ったのだけど、自分の時間で織れたことが良かったんだと思います。そして、それを日本総研の北川君が退職するというから、彼にあげようと思って織っていると、本当に楽しかったんです。そのあとも「あの人のために織ろう」って、何本も何本もストールを織りました。
−− 久米さんが行動する時の原動力って、「誰かのために」なのかもしれないですね。自分のためでなく、誰かのためにするというのがとにかく大切なんですね。
久米: ほんとそうですね。こうして振り返ってみると、私は自分のためには動けない人なのかもしれないってよくわかった(笑)。

写真:織物の楽しさを教えてくれた「北川君のストール」
   (マフラー)
−− ともあれ、そうやって「織姫プロジェクト」のほうは進んでいくわけですが、「お蚕様プロジェクト」のほうは、6月にようやく蚕を飼い始めましたね。蚕を飼ってみてどうでしたか?
久米: 凄く楽しかったですよね。お蚕様に触ったのは初めてだったけれど、本当に可愛くて。あんまり可愛いから、過保護に育ててしまった(笑)。あと、私は、佐藤さん(桑畑を貸してくれた養蚕農家)のお母さんのイメージが強いんですよ。お蚕様が届いた日、佐藤さんのお母さんが来てくれたのだけど、ちょうどテレビの取材が入っていて、お母さんは、「いやだよ、写さないでよ」って逃げ回っていた。でも、その日のことが河北新報に載って、お母さんの顔が写っていて、それを宮城に住んでいる佐藤さんの息子さんが「母ちゃん、写っていたよ」と言って持ってきてくれたんだと嬉しそうに話してくれたんですよね。お蚕様飼っている間も、佐藤さんのお母さんは毎日のように教えに来てくれた。たった500頭飼っただけで、何万頭も飼うあの人達にしてみればママゴトみたいなことなのに、それでも興味を持って来てくれたことが、凄く嬉しかった。
−− 佐藤さんの桑畑を借りられることになって、お蚕様を迎え入れる準備のために剪定に行った時も、佐藤さんご夫婦が、我々が着く前から、たくさんのお茶とお菓子を用意して準備をしてくれていて。やっぱり震災前までお蚕様を飼っていた人だから、思い入れがあるんでしょうね。別れ際に、「美しい繭をつくって下さい」って言われたのが、とても印象に残っています。

写真:剪定後の桑畑に肥料を撒く佐藤さん


写真:剪定した桑畑から、新芽が出てきた。
久米: お蚕様には、佐藤さんという先生がいたからできたんですよね。織物にも先生がいないと。素人だけでは無理。

写真:佐藤さんの奥様が一からお蚕様のことを教えてくれた。
−− 蚕は、永木さんが頑張ってくれましたね。勝手に「生産部長」なんて役をつけたけれど、本当に色々なこと調べて、しかも道具なんかも色々手作りしてくれて。

写真:永木さんが作ってくれたお蚕様の部屋
久米: お蚕様ができたのは永木賢二郎の力です。本当に永木さんのお陰。
−− お蚕様飼い始めてから、永木さん、本当に生き生きして。
久米: すごく明るくなりましたよね。
−− 蚕って、本当に不思議な虫ですよね。あんなに人を惹き付ける虫ってなかなかいないですよね。おまけに、関わる人が、皆、生き生きする。ここで飼っているというだけで、老若男女が来てくれるし。蚕を飼うのは、本当にいいことだなと思いました。

写真:お蚕様はシルクの手触り。繭をつくる直前になると、身体が透き通る。

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